私たちが歌う一曲をめぐる、ちょっと数奇な話
若き日のバッハが演奏した受難曲は、実は自分の作品ではありませんでした。のちにヨハネ受難曲やマタイ受難曲を書くよりも前、まだ20代のころの話です。他人の曲を、バッハは生涯に3度もくり返し演奏しています。それが、私たちVOX RARAが第1回演奏会で取り組む「カイザーのマルコ受難曲」です。
この一曲を、バッハは記録に残るだけで3度、そのたびに手を加えながら上演しました。おもしろいのは、上演を重ねるほど大胆になっていくこと。
| いつ | どこで | バッハがしたこと |
|---|---|---|
| ① 1711〜12年ごろ20代・ヴァイマル期 | ヴァイマル宮廷 | ほぼ原曲のまま。コラールを2曲挿入(第14・29番)。 |
| ② 1726年聖金曜日 | ライプツィヒ聖ニコライ教会とされる | 礼拝に合わせて全体を2部構成に。自作のコラールを1曲追加。 |
| ③ 1747年ごろ | ライプツィヒ同上 | ヘンデルのアリアを挿入。原曲のアリアと差し替え。 |
そして最後の版がすごい。原曲のアリアを、ヘンデルのブロッケス受難曲のアリア(6曲+アリオーソ1曲)とごっそり入れ替えてしまったのです。バッハがヘンデルの音楽を自分の上演に取り込んだ、現存する唯一の例と言われています。直接会うことのなかった二人の巨匠が、楽譜の上で"共演"したことになります。
第1回演奏会でVOX RARAが取り組むのは、3つのうちいちばん最初の「ヴァイマル版」をベースにした楽譜です。のちにヘンデルのアリアが差し込まれる前、シンプルで原曲に近い姿です。
おもしろい事情もあります。ヴァイマルで残っている楽譜には、なぜかオルガンのパートがなく、チェンバロの通奏低音だけが伝わっているのです。ちょうど宮廷礼拝堂のオルガンが改修中だった時期にあたる、というのがよく語られる説明です。校訂者も「オルガンを外したのがバッハの意図だったかは分からない」としており、この曲の通奏低音はオルガンでもチェンバロでも受けとめられます。私たちの演奏も古楽器(A=415Hz)で、その響きに近づけます。
長いあいだ、ハンブルクの人気オペラ作曲家ラインハルト・カイザーの作とされてきました。だから「カイザーのマルコ受難曲」。ところが、その根拠が意外と心もとないのです。
手がかりは、バッハが使った楽譜の表紙にあるひと言のサイン「R. Kaiser」だけ。しかもその「R.」は書き直した跡があり、なかなか怪しい代物です。
| 候補 | いま、どう言われているか |
|---|---|
| ラインハルト・カイザー有名なオペラ作曲家 | 昔の定説。今は作風・年代が合わず後退 |
| 父ゴットフリート・カイザー | 現在の最有力。ただし作品が1つも残っておらず、決め手を欠く |
| F.N. ブルーンス最古の上演の指揮者 | 一部の資料が採るが、作者なのか指揮者なのか不明で未証明 |
バッハはこの"他人の曲"を、若い日から晩年まで受難週にくり返し取り上げました。しかもヨハネ受難曲(1724年)という自作を得たあとも、なお手放さなかった。他人の一曲に、これほど何度も向き合った例はほかにありません。となると、何かを受け取っていたはずです。
いちばんよく言われるのは、受難曲の"型"を学んだという見方。福音史家の語り—群衆の合唱—アリア—コラール、という骨組みは、のちのバッハ自身のヨハネ受難曲・マタイ受難曲と同じ枠組みです。研究者も「ここで受難曲づくりを学んだのだろう」と見ています。
この"型"の話を、もっと具体的に裏づけてくれるのがコラールです。実は両方の作品に、同じコラールがいくつも顔を出します。たとえばカイザー版で、イエスが息を引き取った直後に置かれるコラール“Wenn ich einmal soll scheiden”。同じコラールを、バッハもマタイ受難曲の同じ位置に置いています。ほかにも“Was mein Gott will”はマタイに、“O hilf, Christe, Gottes Sohn”はヨハネに、それぞれ同じ歌詞で現れます。バッハがこの曲と受難コラールの伝統を分かち合っていたことが、はっきり見てとれます。